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エチオピア渡航報告〜DAY5〜

  • 2018年11月24日
  • 読了時間: 7分


エチオピア5日目になります。


この日は13時のフライトでアディスアベバに帰らなくては行けません。

前日アリ族のガイドをしてくれたアブラハムがムルシ族訪問は、朝イチで行けば飛行機の時間までに帰ってこられるから、案内してあげるよ。といってくれたので、朝6時に起きてムルシ族の村まで行くことにしました。

サミのお家でゆっくりと眠ることができ、清々しい目覚めでした。

この日もサミは仕事があるので、サミに見送られ、私たちはムルシ族の村まで車で行くことになりました。


私たちが向かったのが、マゴナショナルパークと呼ばれるところでした。この広大な公園の中にムルシ族が住んでいるとのことです。



道中お猿さんにも出会いました。



ゴツゴツ下道を、車でグングン進んでいきます。

途中民族の方も見かけました。ムルシ族でしょうか。


綺麗な壮大な景色をひたすら眺めていると、ムルシ族の村につきました。

アブラハムと一緒に村に入ろうとすると、長い木の棒を持った一人の背の高い青年が現れました。

威嚇されるかな。警戒されるかな

とドキドキしていたら、アブラハムの通訳のあと、私たちと目があうとにっこり笑って村の中に入れてくれました。



ホッとした瞬間です。



中には50名ほどのムルシ族の方がいました。



早速、好奇心旺盛な子供達に囲まれます。


目がまんまるで大きくて、みんな本当に可愛い!!

唇にはめるお皿を作っているお母さんがいらしたので、その過程を見させていただこうと、話しかけてみました。

手慣れた手さばきでお皿を作っていきます。



女性は少しシャイなのに対して、男性はとてもフレンドリーです。

私たちに笑顔で興味深そうに話しかけてきます。

ここでもチアを通じて笑顔の時間の共有ができれば!と思いポンポンを取り出すと、子供達のポンポン争奪戦が。

初めて見るであろうポンポンにみんなとても興味津々でした。



日よけのために牛の糞で作られた緑色の粉のようなものを全身に塗っていらっしゃる方が現れたり、銃を持った男性に囲まれたり(ニコニコとみなさん笑顔でした)と、少しの滞在時間でしたが、村中たくさんの方と交流ができました。


最後には、村の方全員が集まってくれての集合写真をとりました。



さて、どうしてムルシ族の彼女たちは唇にお皿をはめていると思われますか。



今では、お皿が大きい女性が美しいとされ、結婚するときは男性が女性の家族に牛を送る風習があるそうですが、お皿の大きな女性ほどもらえる牛の数が多いのだとか。

しかし、これには悲しい過去があると言われています。


大航海時代の15世紀中頃から、ヨーロッパ人の船が西アフリカに到達すると、貿易が発展しました。そうして、アフリカに住む方を労働力として輸入するようになるのです。

ヨーロッパの商人たちはアフリカに武器を売り、アフリカ国はその武器で部族を捕らえます。そしてその部族を奴隷として商人に売り払うのです。

エチオピアの女性は美しい人が多く、高値で取引されたと言われています。

そこで、部族の大切な女性を守るための苦作として、唇を切ってそこにお皿をはめはじめました。あえて醜く見せることで、奴隷として連れていかれるのを防ごうとの考えだそうです。

後に、この姿なら奴隷として連れていかれない。唇が大きいほど醜い=美しさの象徴となって行ったという説があります。

なお、現在では健康面の観点から、唇を切ってお皿をはめる行為をエチオピア政府は禁止しているとのことです。


ちなみに、エチオピアは植民地支配を免れた。とDAY4の記事に書きましたが、第二次産業革命が発展すると、列強各国はアフリカの豊富な資源に目をつけはじめます。そうして植民地化が進みます。世界地図を見ると、アフリカはまっすぐな国境線が目立ちますが、これは植民地時代に西欧列強が勝手に引いたものです。民族の構成を考えていないこの国境線のせいで、アフリカは今でも紛争が絶えません。

フィスチュラの発生要因に「貧困」があげられるとのことですが、奴隷貿易などの負の遺産などから、工業化がなかなか発展しなかったことにより、医療や教育に資金をかけることができず、発展途上国から抜け出すことができない。という構造もあるようです。


今回訪れたムルシ族や、5日目に訪れたアリ族。彼らの言葉は、私たちには全くわかりません。でも、仲良くなるのに、言葉はいらない。笑顔の時間が共有できれば、心と心を通わせることができる。

民族や宗教の違いなどによる対立・紛争。富の不平等な分配によって起こる、貧困や飢餓、そして、フィスチュラの問題。。。

私たち人間は、どんな場所に住んでいても、何を信じていても、どんなものを食べていても、みんなみんな、同じ心を持った人間同士。人間が起こす問題は、必ず人間が解決することができると信じています。私たちの心の平和活動を、この世界にしっかり広げていきたい。そう改めて感じました。



ムルシ族の村から、ジンカの中心部まで帰ってくると、アブラハムとはここでお別れです。見た目はパーティーピーポーでも、いい写真を撮ってくれようと尽力してくれたり、私たちの質問にも的確に答えてくれてとてもよいガイドさんでした!ありがとう!アブラハム。




その足でサミの働いている銀行までいき、そのままトゥクトゥクドライバーのダギーとも合流して4人でランチをとりました。

4人で食事を囲うことができるのもこれで最後です。

その足でダギーが私たちをトゥクトゥクに乗せて空港まで連れて行ってくれました。

ここで、ダギーとサミとはお別れです。

現地の友人、サミとダギーのお陰で本当に濃厚な、学びの深いジンカ滞在となりました。

みんなの夢が、叶いますように。



飛行機に乗ると、あっという間にアディスアベバまで到着です!

DAY3にも書いたように、アディスアベバの空港についたら直ぐに、大使の方が教えてくださったセレモニーまで行くことにしました。

場所が定かではなかった為、多分ここだろう。という不確かな確信のもと、セレモニー開催地を目指します。日本人として、そのセレモニーでチアパフォーマンスが出来れば...!!

しかし、多分ここだろうと思われるスポーツセンターの場所はやはり違っていました。

結局セレモニーの場所はわからずだったのですが、私たちの思い違いでついたスポーツセンターは、Ministry of youth and sportという場所でした。



ここまできたのだからご挨拶ができれば、と思い、事務局のような場所に入ると、男性職員さんが対応してくださいました。

政府機関の一つのようですが、スポーツを通じた青少年の育成をしており、スポーツを通じて、国内外様々な機関などと繋がっていくための組織でした。

ただ、お隣韓国のスポーツ交流はしているとのことでしたが、日本の名前が挙がらなかったのが少し残念でした。ないなら、つながりを作れば良い!!

素敵なつながりができたので、いつかここの期間を通じても、チアを通じてエチオピアと日本の交流ができればと思います。 迷ったからこそ当初の目的とは別のものが得られるというのは、人生の面白さのひとつかと感じます。

そして、近くの広場に目をやると、人々が筋トレやランニング等をして体を動かしていました。

私たちも彼らに混ざって、腕立てやスクワットをしてみました。



少し人が集まって来たので、ブチア(Hamlin Fistula病院で披露したダンス。ブリリアント・チアアップ・モアヘルシーダンスの略)を披露してみるとあっという間に沢山の方に囲まれました。

ブチアのダンスを一緒に踊ったり、フレイのコールを共にしたり、スクワットや腕立てを一緒にやったりと、汗を流しながら現地の方と交流しました。



日が暮れるまで少しだけ時間があったので、その広場の直ぐ近くで開催せれていたetiopia new year expoにも行ってまいりました。



主にエチオピアの産業が集まり、商品紹介などを行う展示会のような催しをしていました。

エチオピアの産業やライフスタイルが見られるいい機会なので、少しだけExpo内を見学することに。

音楽が流れていたので、ここでもブチアを披露すると、地元のメディアから取材をされました。

ブチアが広まる一つのきっかけになったかもしれません。Expo内もとても活気があり、エチオピアの明るい未来が見えてくるようでした。

エチオピアの文化やスポーツ、産業についてなど様々なことを経験を通じて知ることができた5日目でした。

次回はいよいよ最終章です。



【参考元】

エリア別だから流れがつながる 世界史

朝日新聞出版

 
 
 

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